中華佛學學報第17期 頁305-335 (民國93年),臺北:中華佛學研究所,http://www.chibs.edu.tw
Chung-Hwa Buddhist Journal, No. 17, pp. 305-335 (2004)
Taipei: The Chung-Hwa Institute of Buddhist Studies
ISSN: 1017-7132

文化的拘束を離れた仏教的宗教性の伝達

──東南及び東アジアから全地球時代における転換


市村承秉
北米禅仏教学研究所長




p. 305

提要

古来、印度に興起した仏教の東漸に従って、東南アジア及び極東アジアの文化圏における仏教徒は、中世を通じて、印度は仏教の聖地であり、印度の民衆は実質的にも潜在的にも、仏教の本質を豊かに備えている民衆であると考えられて来た。しかし、第二次大戦の終結とともに、歴史的情況変化と機械文明の発達とその利用によって、この様な意識の内容に大きな転換と変質を果たして来た。一方、ムールテイ教授の『仏教の中心哲学』(1955発刊) は、印度の独立以降八年のことであるから、当時の印度人指導者の中には、印度仏教の再興という課題が、政治的にも文化的にも可能であると意識されていた時代である。世界仏教聯盟がセイロンで結成されてから五カ年後、そして、佛歴二千五百年記念会議(ブッダ・ジャヤンテイ)を印度政府が後援主催したのが1957年であった。しかし、その後の国際情況と国内情況の変化で、印度大陸を主とするヒンドウー教文化圏と、東南アジア及び極東の仏教文化圏との相違が表面化し、相互の距離が次第に疎遠して来ることになった。

ムールテイ教授の著書は、前記のごとく、時代の要求に答えるものであったが、思想的には、仏教文化の代表者としての思索考究というよりは、ヒンドウー教文化の代表者として、印度哲学、即ち、ヒンドウー教哲学の伝統を基盤として、仏教の中観思想の理解をアドヴァイタ・ヒンドウー教理論に平行して練り上げた力作である。さて当小論は、上記ムールテイ教授の著作について、仏教哲学及び仏教文化の立場からの批判論であるが、決して一方的なものを意図しているものではない。現今、普遍性に立つ人間中心主義や国際主義の立場が、宗教文化の相違や政治経済の不平等からおこる、テロリズムや原理主義の闘争によって、危機に立たされているのであるから、印度の識者達は、ムールテイ教授の生誕百年祭を記念して、今一度教授の著作の意義や意図を検討してみようというのである。その意欲を充分買って、

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対論者の立場の理解には充分努めている。要するに、当小論は、今後の仏教思想の伝達には、あらゆる文化形体を乗り越えることの出来る、大乗仏教の空性の理論によるべきであることの一論証として置きたい。

關鍵詞: 1.T.R.V. Murti  2.The Central Philosophy of Buddhism  3.Mādhyamika Philosophy  4.Mādhyamika Dialectic  5.Buddhist Advaya Philsoophy  6.Hindu Advaita Philosophy  7.prajñā and śūnyatā

【目次】

一、序

二、東南アジア上座仏教:梵語文化にたいする依存とそれからの独立

三、東アジアにおける大乗仏教の伝統:インド的ヒンドウー文化からの独立

四、上座仏教と大乗仏教の宗教性を連結する龍樹の中観仏教の理念

五、アビダルマ部派仏教の教理論争に於ける論理的行き詰まりと、誤謬法に基づく中観派の解決

六、空性の叡智より見た唯識論のAdvaya仏教哲学とAdvaita-Vedantaヒンドウー哲学

七、結論



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一、序

1950年代、T. R. V. ムールテイ教授は『仏教の中心哲学』と題する研究書を発表し、革新的な反響を戦後の仏教学者に沸き起こした。中観哲学を近代の西洋哲学に比較するという大胆な試みは、スチャバツキイ博士が、『仏教的涅槃の概念』(1927)において始めて手掛けたものであるが、その後をついで、ほぼ完全な研究書として刊行したのである。同教授の出版刊行は、丁度印度における仏教再興運動の機運、すなわちナーランダ・パ-リ-仏教研究所の設立や、アンベドカ-ル革新仏教運動の展開と、時期を同じくしたのである。しかも東西哲学及び文化の交融運動が始まった頃であったから、彼の中観哲学研究と理解は、戦後の仏教研究の新基軸として受け止められたのである。

仏教の宗教性にたいする同教授の哲学的洞察は、二点に於て極めて正確である。(1)即ち、ムールテイ教授は、中観仏教の弁証論法は肯定乃至否定の両者によって解決できない形而上学的問題にたいして、仏陀が沈黙をもって応えたと云う根本要因を契機としていると解釈するのである。(2)第二には、ムールテイ教授は、仏教の哲学的オリエンテーション(傾向態度)は認識論的であり、奥義書(ウパニシャッド)を始めとするヒンドウー教一般の哲学的オリエンテーションは存在論的である、という相互に異なった特徴が、両者の根本的な相違となっていると理解する。従って、後世仏教の唯識派とヒンドウー教アドヴァイタ・ヴェ-ダンタ派が対立して論争応酬する根拠は、この相違する両者のオリエンテーションにあったと解釈するのである。

しかし総合的にみて、ムールテイ教授の哲学的解釈は、二点において間違いを犯していると見られる。(1)その一つは、彼が龍樹の否定論法、すなわち帰謬法を根幹とする弁証論法の由来を求めるにあたって、アビダルマの論理的行き詰まりに見い出すことなく、般若経典の説示する空性の理論に直接見い出そうとしたことにある。何故ならば、般若経典は帰謬論法を全く使用していないのである。(2)失敗の第二点としては、仏教の瑜伽行派の建てる三性説(trisvabhāva)が、実は三無性説(niḥ-trisvabhāva)にその根拠をもっていることの重大さを、ムールテイ教授は無視してしまったようにみられることである。彼は、唯識派のアドヴァヤ認識論的哲学と、ヴェダーンタ派のアドヴァイタ存在論的哲学とを折衷せんとするにあったて、「三性論」自体が空性の上に建立されていることを研究書中述べていないからである。

ムールテイ教授の上記の試みは半世紀前の当時、歴史上極めて新鮮なものであったと考えられる。

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仏教の認識論的オリエンテーションによる瑜伽行派の「無分別智哲学」(advaya philosophy)と、ヒンドウー教の存在論的オリエンテーションによるアドヴァイタ・ベーダーンタ派の「絶対原理哲学」(advaita philosophy)とは、両者ともに、折衷調停の方向を史上未だ曾って採択することはなかった。従って、ムールテイ教授の意図は、やや早まりすぎたものと思われる。彼は両者の理論が無限に同一化の方向をとるものと予想し、究極的無分別智と究極的実在者とが、合一化せんとする過程を心象に思い浮かべたものに違いない。彼は研究書の結論部で次のようにいう:「もし世界の融合統一が希望されるとすれば、それは、究極的実在者と、その把握を目指す自由な選択枝としての実践道とを、見事に結合できるような神秘主義的宗教によってのみ可能であろう」と云い、またこれに関連して「中観派の絶対主義弁証論法が、将来可能な世界文化の基礎として貢献するであろう」と予言する。このような善意にみちた彼の示唆に反して、人間の闘争が今日人道的視野を外れ、極端に過激化し、無統制になっている世界であるから、彼の見解はむしろ現今の世界により適切であると思われるのである。

しかしながら、現今の実践的仏教の実態を反省してみて、果たして上記のごとく、仏教とヒンドウー教絶対哲学とが協力に踏み切り、ムールテイ教授の要望するように、うまく応答することが出来るであろうか?と自問してみなければならない。筆者の小論の目的は、ムールテイ教授の示唆する二者の要望について批判的に検討を加え、現今の実践仏教の実態を反省しつつ、今後全地球時代と云う新環境において、仏教の宗教性が如何なる将来の道を開拓できるものか考えて見ようとするものである。

二、東南アジア上座仏教:梵語文化にたいする依存とそれからの独立

昨年(2001)5月21日から22日に、バンコックで「東南アジアの強力な文化的基礎としての梵語」と題する一学会が開催された。筆者も小論を発表する様招待をうけたので、「上座仏教と東南アジアにおける梵文ヒンドウ-教文化:依存と独立」と云う論題で小論を提出した。主催側委員会を構成するタイ国人学者達は、梵語文化は彼等の国民的遺産であり、仏教が東南アジアにおける梵語文化とよく共存してきたことは、調和と平和に貢献しうる梵語と云う言語自体の潜在力に依るものであると確信しているようであった。

はたして梵語が平和に導く言語的能力を有するものであるのか、あるいはまた東南アジアにおける文化的調和を確保しうる方便となりうるものであるか、なお今後検討を要する課題である。

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少なくとも、東南アジアの仏教は梵語文化と拮抗することがなかったことは明らかである。筆者が観察するかぎり、ヒンドウ-教の信仰や慣習はバンコック市内の各街角に容易に確認することができる。象や猿のようなヒンドウ-神が、金色に輝く仏教寺院に交じって、街路をはじめホテルの庭先等の祠に祭られているのを見る。毎朝、上座仏教の毘丘達はこのような街路を全く意に介せず素足で托鉢するのであるが、このようなタイ国仏教界に比較して、同じ東南アジアでありながら、イズラム教やキリスト教が伝播した地域では、梵語文化の趨勢は仏教国におけるごとく好運に恵まれているとは言ひ得ない。現今では、特に、インドネシヤ、フィリッピンや、そして多分マライシヤにおいても、調和と平和にめぐまれた共存は、もはや当然の事とは考えられないようである。

仏教が印度に生まれ、その歴史的発展は印度文化中に起こったことであるから、誰しも仏教と梵語文化は当然何処においても共存できたものと考えるのが当然であろう。東南アジアでは、古代から海洋航海によるインド文化の影響が極めて強力であった。しかし極く最近のことであるが、どうも気になる発言を耳にする。その言によれば、ヒンドウ-教圏と仏教圏とが協力の陣を敷いて、一神教の積極的改宗攻勢に対して、おそらくイズラム教乃至キリスト教を名指しているのであろうが、共に防御の線を張ろうではないかと、呼び掛けて来る声である。しかし、その理由の主張は、仏教をヒンドウー教の一部であると看做し、ヒンドウ-教改革主義の一派として出発しているからだというのである。ある教授たちは外交的に取り繕い、ヒンドウ-教と仏教は同じインド文化の基盤より姉妹として出生してきたものと言い換えているが、インド大陸の外にいる仏教徒の筆者としては、上記の発言をそのままにしておくことが出来ないと思った。二人の姉妹といった譬喩では、仏教とヒンドウー教との発生や、宗教性の内容や、文化的含蓄について、明確な相違や異質性を証明することにならないと思うからである。このような批判的判断を持ちながら、会議に出席し、「東南アジアの仏教圏における仏教と梵語文化との関係とは何か?」と云う題題で小論を発表したのである。昨年の時点では、そのような関係を筆者は依存と独立と云う二重構造をもつて理解していたのである。筆者の主張したいことは、富裕な文化を生み出した言葉としてのサンスクリット語の評価は別として、平和的並びに調和的な共存を可能にしたのは、むしろ仏教的な宗教性とその文化的寛容性にあったと云うことである。

この点に関して、ムールテイ教授は、極めて明快に仏教とヒンドウ-教との相違を以下のように述べる。



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仏陀及び仏教は、『奥義書』(ウパニシャッド)ついて、単にその祭礼義式の勿体ぶった表現や内容の空虚さ(──これは『奥義書』自体が間違いなく指摘する──)にたいして反対したと云うばかりではなく、其の裏面にある形而上学的実在論、すなわち自我中心的なイデオロギーに反対したのである。如何なる仏教経典にしろ、仏陀自身の言として、彼独特の哲学的見地は、「奥義書」はもちろん、他の如何なる思想家に借りがあるなどと述べたことがない。ブラフマ神が寓話として幾回か出てくるが、哲学的絶対原理としての、「梵」(ブラフマン)についても全く述べたことがない。仏陀は彼自身、常に革新的な伝統を開始しているもので、彼以前に何人も通ったことのない道程を展開しているのだと云う意識をもっていたのである。[1]

一般に仏教徒の理解では、仏教の宗教性は 、普通言語的に表現される自我やその実在論的根拠「梵我」を、徹底的に否定することに始まり、その実現において終焉するものであると考えられている。この根本的な仏教的思考方向や態度(オリエンテーション)について、ム-ル-テイ教授の上記の言は、仏教がブラーフマナ時代のヒンドウ-教から発生したものでないことを、明快に言い切っているのである。宗教にせよ文化にせよ、仏教的宗教性や実践理念は如何なる梵語文化の実践理念、例えば、古代乃至古典時代の数論派や勝論派、等のヒンドウ-哲学諸派の理念とは、確実に相違していたのである。

以来一千年の中世期時代、仏教とヒンドウー教は相互に影響しあうのであるが、ム-ルテイ教授も彼の書の後半部において分別するように、仏陀の無我説と『奥義書』の梵我説は二者対立した伝統でり、独立した思想哲学の組織として存続したのである。[2]しかし東南アジアにおいては、文学や祭礼儀式にたいする梵文文化の強い影響が見られるのであるが、上記のような対立は生じなかった。

ここで一つ考慮してみなければならぬことは、若し釈尊が一神教的文化圏に生を受けていたとした場合、

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宗教的解脱を求める際、はたして釈尊自身が実現できたような方向に、其れを追求出来たであろうか、と云うことである。筆者は甚だそれを疑はざるを得ない。従って、仏教の起源は、間接的ながら、当時言語使用にかんして、既に『奥義書』的な究極的実在と、言語現象に絡んだ一般経験界とを、分別して思考する文化的環境があったと考えざるを得ない。そのような梵語文化の圏内で起こったとみるかぎり、間接的ながら、仏教の起源は非有神教的な梵語文化の恵与を受けて、自由に宗教的解脱の方途を選択できる様な条件にあったと考えたい。このような一般文化に従って、佛教哲学はその特有な超越性の概念を勝義(paramārtha-satya)とし、人間が言語的認識によって存続する現象性の概念を世俗(sāṃvṛti-satya)として、分別することになったと考えられるのである。東南アジアでは、同様な恵与を仏教が得たのであるが、特にインド大陸と異なって、梵語文化をささえるブラフマン階級が東南アジアには存続していなかったのであるから、東南アジアの仏教はその自由な繁栄と展開を享受したものと考えられる。

上座仏教の中心となる実践は「分析的内観」(vipaśyanā)であって、『律蔵』や『初転法輪経』等によれば、これは、ベナレス郊外の鹿野園で、釈尊が伝道の第一声として揚げられた教説であったと云う。この教説は「人々各々、分析的内観を通して、法の三性、すなわち、一切が無常、苦、無我であると、理解すること、それ自体が人間の宗教性であると云うのであった。そしてその実践方法は、五蘊(色、受、想、行、識)のあり方を、あるがままに分析的内観を通じて実証することであって、それによって、正智の開顕に到達するのであった。即ち、これら五蘊のカテゴリーの内容となる究極的要素(ダルマ、dhammaまたはdharma)について、無常、苦、無我と実証することを本領としたのである。同様な内観を十二処、十八界等々、四聖諦に至る迄、完遂しなければならないのであるが、言い換えれば、この分析的内観の実践によって、如何なる認識経験にせよ、我々が感覚器官と知性に依って知り得る限り、対象界は決して其の認識した様に確かなものではなく、且つ究極的に依存できない無我なるものと理解することであった。

極めて初期の仏教諸派として知られる上座部や経量部等、或は後代の大乗仏教諸派として知られる中観派や瑜伽行派でも、上記の根本的内観による実証の追求は、その本来の実践理念においても、またその言語的表現においても、仏教史を通じて決して変わることがなかった。仏教の思想家は同様な実証を経験的認識や現象的対象の分析に追求したのであるが、彼等は人間の意識下に媒介する言語的潜在意識と、その心作用に内観及び実証の鉾先を向けたのである。経験的現象界においては、人間の意識は思考の先天的形相は勿論、言語的形象やその活用を必然とする圧迫から逃れることが出来ない。

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古代より仏教の思想家は「世俗」という言葉をもって、経験界の背後にあるこのような必須条件を指摘ししてきた。またそれに対して、「勝義」という言葉をもって、そのような必須条件からの解脱乃至超越の対境を表象した。インドに於ける仏教の実践道が、梵語文化の世俗という経験界の必須条件を克服し、それより独立することを目指したように、東南アジアにおいても仏教は「勝義」に向かって、世俗の経験界を超越しなければならなかったのである。[3]

この点に関して、筆者はタイ国における近来劇的な台頭を顕してきた「ダンマカーヤ運動」について注意を喚起したい。何故かと云へば、この運動は現今のタイ国人の道徳的並びに精神的な意欲を代表するもので、上座仏教の根本的な実践理念である「分析的内観」(vipaśyanā)を他に伝達せんとしているものに外ならない。このタイ国における現代的内観の実践はチャオ・クム・モンコル-テップムニ毘丘(1885-1950)の名で知られる禅定の達人の影響にその起源をもつ。事実、この毘丘が経験界の超脱という目的に努力した道程は、いみじくも釈尊の指導方法が現代において再現されていることになる。この毘丘の「分析的内観」の実践組織は古代のアビダルマ実践修行そのものを真実に再現したものと思う。[4]そして、当今のダンマカ-ヤ運動は、この聖者禅定毘丘によって霊感を与えられたものであると云われるのは、けだしは当然の事と納得出来るのである。



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三、東アジアにおける大乗仏教の伝統:インド的ヒンドウー文化からの独立

内部的には極めて多様であるが、東アジアの仏教は総体的に云って大乗仏教である。チベット仏教の伝統を含め、中国、朝鮮、日本、そしてインド-チャイナの一部は、みな仏教諸派に共通な宗教的オリエンテーションを大乗仏教における空性の内観実証におく。そしてこれらの大乗諸宗派は一枚岩的な南方仏教上座部の様相から容易に区別することができる。ムールテイ教授が念を押すように、大乗仏教の指導原理は般若経に説く宗教性であり、これは空性の内観実証を指すものに外ならない。今日ある上座仏教が根本的には、その初期の教説と実践に等しいとすれば、上座仏教と大乗仏教の宗教的オリエンテーション(指向や態度)を比較するには、上座仏教の教説の内容に、玄奘訳の所謂『般若心経』(649年)の内容とを比較することが便利である。この漢訳経典は262字からなり、最少経典といはれ最も克明に研究された経典である。実際には、この訳に先立って鳩摩羅什(344-413)による訳『般若波羅蜜大明呪経』[5]と称される一巻もあるが、[6]玄奘訳が断然よく知られ、一千年以上使用されてきた。しかし、何故この経典の教説が大乗仏教の哲学的根本理念を代表するものであるかという理由は、そこに説かれた般若の根本理念は、初期仏教哲学の組織が持つ根本理念に平行し凝縮されているからである。[7]



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エドワード・コンゼ教授は、この『心経』の各条項の全てが二万五千頌を持つ『大品般若経』、特にその第二章に於ける内容に、総べてマッチすることを発表した。龍樹の大册『大智度論』[8]が、『大品般若経』の注釈書として、その全般にわたる二万五千頌を其れ自体に含んでいたので,[9]鳩摩羅什はこの『大品般若経』

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を、龍樹の一大注釈書『大智度論』と共に405年に発行できたのである。

『心経』の構造は充分な検討を経て二者の異なった解釈に決着している。その一つによれば、この経典は顕教に属するものとし、また他の一つによれば、密教に属するものとしている。前者の解釈では、この経典の前半部に明らかなように、其れは大乗仏教の空性の理念と般若波羅蜜の実践を顕教として説いていると云うのであるが、後者の解釈では、この経典はその後半部が真言祈祷の呪文で終っているのであるから、むしろ密教に属し、真言祈祷の実践を勧めているものとするのである。

コンゼ教授は、しかし、この経典にかんして、特筆すべき革新的解釈を紹介しているが、当筆者もこのコンゼ博士の新解釈を採択することにしている。この革新的な解釈によれば、『心経』の元来の目的は釈尊が鹿野園においてその第一声により宣言した教説の「再宣言」を意味したものであるとする。第一宣言は仏陀の第一声としての教説で、それによれば、五蘊、十二処、十八界、十二支縁起、そして最後四聖諦に終わる内容であった。それが今度は、『心経』が最短経典であるにも拘わらず、仏教の起源となる根本的な教説の全体を、大乗仏教の空性の理念により要約しているとするのである。言い換えれば、『心経』は仏陀の基本的教説を空性の理念により再構成した大乗仏教の宣言文なのである。この凝縮された般若経典は、釈尊の内意を受けた観自在菩薩が、代理として解説するのであるが、この経典の内容はあらゆる般若経典の総覧凝縮となるものであるから、釈尊が大乗仏教を奉ずる人々の為に、上記の菩薩の解説を通じて、再度教説された『第二転法輪経』を構成すると云うのである。

『般若心経』並びに諸般若の経典が共通に表明するところは、「空性」の理念において一切の実在を否定することであったから、ムールテイ教授が、龍樹自身の宗教性の指向するところは、般若波羅蜜の哲学にあったと理論ずけ、そしてまた龍樹の否定弁証論法の起りが、般若経典にあったとみることは、しごく当然といえるのでるが、その誤謬については次の章にのべることにする。今此所で問題になるのは、この『般若心経』が如何なる理由と方途によって、千五百年もの間大乗仏教の信奉者の心を掴み、且つ精神的求道の方向や態度に指導を与え、三時を通じて空性の理念を意識すべきことを可能ならしめたものであろうか?と云うことである。

仏教の宗教性と文化の観点から眺める時、当『心経』は東アジアの大乗仏教運動に不可欠な一大要因を其の中に含んでいる。すなわち、一切の般若経典は、その中心となる解説者はことごとく釈尊であるが、この『心経』のみ、ただ一度観音(観世音または観自在菩薩)がその中心的解説者となっているのである。玄奘の翻訳後は、

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この『般若心経』が、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』中、第二十五章の「観世音普門品」として知られる、『観音経』に連結され、瞬く間に東アジアに伝播されて行くのである。この観世音菩薩は、龍樹が『大智度論』で繰り返し宣伝するのであるが、中国人仏教徒中、天台宗の智者大師をはじめ、各宗の宗匠の宣伝するところとなり、大乗仏教の菩薩像中代表的救済者として、カルト信仰の対象となる。観音菩薩は大乗教における慈悲と愛の権化として二経典の伝搬とともに、その崇拝運動はやがて東アジア一帯の諸国に伝播され定着して行くのである。仏教の諸宗派が大乗の教理を伝播してゆくところ、何処であれ、この菩薩崇拝運動がそれに附随し、やがて東アジアにおける汎文化勢力となるのである。

重大な事実は『般若心経』の宗教的精神が『法華経』の「観音章」と不分離に結合して、上記の自由な文化勢力となったことである。すなわち、空性の理念が観音の慈悲と愛の積極的原理と結合して、いずこに於ても人種、種族、社界階級、等の障壁の一切を超えて、人々を感化していったのである。筆者はこの中国の中世並びにそれ以降東アジア地域一帯に展開した主要な文化的感化力は、単に般若経典の宗教性を根拠にしたのみならず、かの菩薩像に具象した積極的な慈悲と愛の原理を根拠としていたと理解するのである。此所で筆者の主張したいことは、この両者連結した教説が、大乗仏教とその文化をインド大陸のヒンドウー教とその文化から切離してしまう、と云うことである。

観世音菩薩はインド古典梵語ではアヴァロキタスヴァラとして知られ、後世、 観自在菩薩、アヴァロキテシュヴァラと変名してからは、ヒンドウー教神、マヘーシュヴァラ(シヴァ神)と頻繁に間違えられ、且つ同一・相違をくりかえすのであるが、この男性神像は、ロケシュ・チャンドラ教授によれば、ブラフマ神の変形(metamorphosis)であって、ヒンドウー教の宗教性を代表するものであるという。[10]この男性像はシヴァ神であるマヘーシュヴァラ神と混合してからも、南方及び東南アジア地域では常に二千年を通じて男性像であった。しかし中国においては、観音菩薩像以外、千手観音のごとくインド的観音像が多く中国仏教徒によって礼拝されていたにも拘わらず、[11]中国人仏教徒はかれらの文化的審美感の影響で、唐時代 中、

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女性化した観音像を創造したのである。この女性的様相をそなえた菩薩像は、より正しく云えば、中性化した中国仏教の観音像であるが、般若波羅蜜の宗教性とその慈悲と愛を正しく人格化した理念を根拠にもつものであることがわかる。其れでは、中国の観音像が何故どのようにしてヒンドウー教の文化から超文化的に切り離なされ、中国人的文化の表現に転換することになったものであろうか?この問題は甚だ複雑で謎めいた問題を含むのであるが、ここで歴史的事実として簡単に言えることは、インドにおいては、仏教徒の観音信仰がむしろ比較的短期間のうちに、ヒンドウー教徒の信仰対象に変化してしまうのであるが、中国および東アジアにおける仏教徒の観音信仰は、なお今日存続していることである。チャンドラ教授は、アヴァロキテシュヴァラ信仰と其の尊像の起源を、ヒンドウー教宗教意識に根拠を持つブラフマ神の変化身と説明する。きわめて説得性のある理論である。即ち、アヴァロキテシュヴァラ神が梵の多様な象徴現象の一つとして、ブラフま神の変化身であると説明することはまことに見事である。この理論は、更にまた何故仏教の観音信仰がインドにおいては、ヒンドウー教徒に依って、急速にしかも総体的に彼等の宗教的信仰対象として、変質してしまったかの理由にもなるのである。しかし、チャンドラ教授は、インド的アヴァロキテシュヴァラ信仰と東アジアの観音信仰とでは、宗教性の根拠が一枚岩でないことに気がついておられないように見える。筆者は、このようなインド仏教の観音信仰の末路には、明らかに般若波羅蜜の宗教性が欠けていたこと、そしてまた、菩薩の慈悲と愛の原理もそれに連結していなかったことにあると確信するのである。[12]

四、上座仏教と大乗仏教の宗教性を連結する龍樹の中観仏教の理念

ムールテイ教授も主張するように、中観論法は仏陀の中道を表象する批判的宗教性に遡って理解することができる。

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一般に仏陀及び仏教徒は二者相互に拮抗する立場、例えば、永遠なものの存在を主張する立場と、それを否定し存続する何ものもないと主張する立場との両者を避けたと云われる。当時六十二種の異なった思想や主義が競っていたといはれるが、それらのすべてを批判したという仏陀の思惟が、中道への超越を意味したものと云われる。ムールテイ教授は、仏陀が十四箇条の形而上学的問題について応答を避けたと云うことについて、それがカントにとっても理性判断に附随する二律背反(antinomy)の哲学的問題であったと主張する。即ち、仏陀は、この世界が永遠であるか、それとも永遠でないか、それとも両者か、それとも両者のいずれでもないのか、といった質問には、理性の判断にかんするかぎり、そのいずれとも返答しようがないことを、充分弁えていたと云うのである。従って、仏陀のとった態度や方向は、それら両者の対立を批判的に捨象し、より高次の超越的立場にたつことを意味したものといはれるが、此所にこそ仏教的弁証論法が生まれて来る根拠があったと、ムールテイ教授は理論づけるのである。[13]

仏陀が沈黙によって理性の二律背反にもとずく矛盾拮抗を超越したということは、当時なお中観論法の出現以前の段階であって、龍樹達が中観論法を駆使して活躍する時代には、二者の拮抗する伝統が更に生長し、人間の意識を強力に圧迫すると云った環境がなくてはならなかったと、ムールテイ教授は考える。ここにおける、二者の伝統とは一方『奥儀書』等にあらわれた「自我の哲学」が、数論派、勝論派等の哲学組織に展開し、一方仏教における「無我の哲学」が毘婆娑部や経量部に成長したことを意味し、中観派の批判的意識の台頭のためには、上記二者の伝統が極端に対立すると云う文化的環境がなければならなかったと云うのである。ここで、龍樹をはじめとする中観派の活動には、二重の役割を持っていたとムールテイ教授は主張する。まず第一に、仏陀が中道と称する高次の境界に超越することの意味を説明し、第二には、究極的実在は常に人間の思惟思考を超越していることを説明しなければならなかったと云う。[14]

ムールテイ教授によれば、中観哲学とは般若経論の形而上学、六波羅蜜の実践道、並びに宗教的理想(菩薩)を空性理念によって組織したものであるとする。[15]このような教授の理解は、『二万五千般若経』の一大注釈書として知られる『大智度論』

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Mahā-prajñāpāramitopadeśaśāstra)の著者龍樹が、『根本中頌論』(Mādhyamika-kārikāśāstra)を論述した龍樹と同一者と見ることを前提とするものであるが、その限りにおいて、筆者も当然同様な理解をもつものである。しかし何故この様な条件をつけるかというと、『大智度論』には中観派の「帰謬法的否定論法」が使用されていないからである。確かに『大智度論』には空性の理念や大乗菩薩の理想、特に積極的な慈悲と愛をもつ観音菩薩について多々説明する章節があるが、中観派の弁証論法や否定論法にかんする解説は内容としてもっていないのである。筆者は龍樹が『大智度論』の著者であることについては、何等の反対もない。しかし、この経論は中観派の弁証論法を導き出す源泉資料を含んでいないのであるから、般若経典が龍樹の弁証論法の根拠であると推量するムールテイ教授の意見に、筆者は手放しに賛成することが出来ない。従って、龍樹の否定弁証論法の資源を他に見い出さねばならぬと考えるのであるが、筆者は其れを『論事』すなわちKathāvatthu に記録されている「阿毘達摩諸部派の論争」に求めることを提起したいのである。

ムールテイ教授の中観弁証論法の理解に賛成できる諸点は以下のごとくである。(1)すなわち、中観論法とは一切の経験論的概念や思索的な理論を否定することを意味し、其の否定に依って、それ以前の仏教におけるアビダルマ的多元論(pluralism)と独断論を般若経の空性の哲理に切り替えることにある。(2)般若経の哲理はその根本的空性の叡智によって仏教の思想や宗教を革命的に変更を果たす。[16](3)仏陀の批判的宗教性の結果は中観哲学においてその最高点に到達し、仏陀の内観的弁証が其の意識において中観論法の主題と成り、一方中道的超越に導くと共に、一方実在の思惟超越を内示するのである。[17]しかしながら、中観論法そのものが『大智度論』或はまた如何なるすべての般若経の理念に根拠をもつと、もしムールテイ教授が推定しているのであれば、筆者はそれに賛成できないのである。

此所でムールテイ教授が分析する中観弁証論法の主要形態を以下のごとく要約してみる。(1)中観派の「誤謬法による否定論法」はそれ自体に主張する命題をもたない。よし或る特定の仮定命題を定立するとしても、論争相手がその命題に内含する矛盾に気がついていない場合、其の内含する矛盾撞着を提示する方法である。

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[18](2)中観論法の否定は肯定を含まない否定である。と云う事は相手の命題の自己矛盾のみで否定するのである。(3)中観論法はその主張する命題をもたぬのであるから、三段論法により理由や例証を用意する必要はなく、誤謬法を使用するのみである。(4)中観論法の原理は何等かのものが独立に存在することではなく、すべて相互に他に依存するという関係の事実である。何故かと云えば、経験される如何なる事象にも、いざ分析されることになれば、その内部に二者以上の関係が矛盾として顕現露出してくるのであるから、すべて其れ自体に完全なものはない。(5)中観派がその弁証論法で意図するところは、自己同一的な絶対者の存在することではなく、常に他との相互関係に依存することを証明するもので、分析を加えれば加える程、更に他との関連性は無限に範囲を拡大して行くものである。

中観派の弁証論法の起源にかんして筆者がムールテイ教授の意見に賛成できぬ理由は、上に陳述したような誤謬矛盾を根拠にした否定論法の根本形態の解説が、般若経典の何処においても見い出せないという事実である。それに反して、龍樹の誤謬法に拠る弁証論法は、むしろ教理論争を繰り返したアビダルマ部派仏教の論争形態にあるものと筆者は考えるのである。究極的には、従って、龍樹の誤謬法に基づく弁証論法はアビダルマ教理論争に於ける「論理的行きずまり」の解決にあったと筆者は見るのである。結論として言える事は、第一に龍樹はその若かい時代にはアビダルマ部派の一つに帰属していたもので、第二には、従来脅威であった「アビダルマ仏教教理の論理的ゆきずまり」を打開する論法が模索され、それを龍樹が新しく考案したものであった。[19]

五、アビダルマ部派仏教の教理論争に於ける論理的行き詰まりと、誤謬法に基づく中観派の解決

人間の宗教的意識と世俗的意識との関係が問題として取り上げられる時、仏教の根本教義としての無我説は、我々の理性的思考にとって重大な問題となる。両者の意識とは、

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一方超越的境界の自覚であり、一方経験論的世俗界への連座意識である。したがって、何故一人間といわれる個人の中核的存在、即ち、一方世俗的には一切の利害標準の根拠となる私的人格が、一方超経験的な意識においては、非存在と修飾されねばならないか、という理由付けがますます困難となってくる。この両者の関係について、仏陀自身が、ある条件においては、「一個人(プドガラ)とは経験論的自我であり、一個の人格を構成すると」と教えている。『論事』では、プドガラ論者がこの言葉を彼等の権威的検証として極めて多く使用するが、それを引用してみると以下のごとくである。

五蘊の集積とともに一人格があって、人格的個人の自我として推移する、そして色等の要素は純粋に実在すると知られるものである。[20]

この引用文は明晰でないため、それだけでも充分に論争を引き起こしうる曖昧性を含んでいる。上座仏教の正当主義者は、自我のような個人や半形而上学的な人格を徹底的に否定するが、革新主義のプドガガラ論者は、半形而上学的な意味で行為の代行者として、人格の存在を超経験論的な要素であるダルマ等(dharma)の存在に連結して肯定する。かくして、これら二部派の教理的論争は免れないことであったが、『論事』はこの論争を中心課題として取り上げ、其れを一切の他の課題に拡散して、教理の検証を繰り返へすのである。[21]

プドガラ論者との論争において、上座部正当派が目的とするところは、前者の命題を誤謬と証明することによって、「自我の非実在」を絶対真実として確証することにあった。何故ならば、無我説はアビダルマ部派仏教にとって、解脱の鍵であったからである。プドガラ論者を反論するために、上座部論者は先ず二者の論理的関連命題を次の様に用意する。

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すなわち、(1)「色蘊の各要素、箇々のダルマ、は純粋に実在するものとして知られる」;(2)「色蘊の各要素、箇々のダルマ、は純粋に実在するものとして知られると同様な仕方で知られる。」[22]の二者であるが、両者をそれぞれ記号で “(xP” と “(xQ” と書き換えることにしよう。

この二者の連結命題は、もし‘x’が超経験的なダルマであるときには、両命題とも肯定文、“PQ” となり、上座部論者の持論を証明することになる。処が、もし両命題の指示する対象が、世間的な経験現象(たとえば、これを‘y’と記号し)、プドガラである場合には、両命題とも等しく否定されねばならないと上座部論者は考えた、即ち “-(yQ.-(yP”。かくして上座部論者は、持論を守る二命題を論理的に正しく誤謬のない標準として論争に利用し、プドガラ論者の主張する命題、「個々人(プドガラ)は半超経験的自我として、五蘊の集積とともに推移する」が論理的に誤謬であることを証明しようとするのである。繰り返していうが、上座部論者は論理的に連係する二者の命題によって、「もし‘x’が “P” であるならば、‘x’は同時に “Q” でなければならない」という論理関係を標準として、色蘊の要素に附随して推移するといわれる経験的自我を、超経験的なものと主張するプドガラ論者を敗北させたいのである。

上座部論者は、先ずプドガラ論者に質問する:「プドガラ(‘y’)は純粋に実在として知られるのか?」。プドガラ論者は積極的に肯定し、「さよう、そのように知られる」と答える、即ち、“(yP”。上座部論者は更に質問を加え、「それではプドガラはは純粋に実在するものとして知られると同様な仕方で知られるのか?」。プドガラ論者は、しかし同様に積極的な肯定ができないので、「というわけではない」と否定する。この返答を待っていたかのように、上座部論者は「プドガラ論者が論理的標準に違い敗北した」と宣言する。

プドガラ論者よ、汝は誤謬をおかした。何故かと云えば、もし最初の命題を肯定するばあい{(yP}、第二の命題も肯定しなければ成らない{(yQ}。然るに、プドガラ論者よ、汝は第一の命題を肯定しながら、第二の命題を否定する、即ち、“(y){P.-Q}”。また、若し第二の命題を否定しようとするならば、汝は第一の命題も否定していなければならない。しかるに、汝は第一の命題を肯定しながら、第二の命題を否定する、即ち、“(y){p.-q}”。

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従って、汝は敗北した。[23]

この上座部論者の主張にたいして、プドガラ論者はその反論において、巧妙にも、同様な論理法にしたがい、次のように問い返す。「我等の主張するプドガラ(人我)は純粋に実在するものとしてしられないか?」。上座部論者は確信をもって、「さよう。超経験的なものとしては知られない」と答える。そこで、プドガラ論者は更に:「それでは、このプドガラは、純粋に実在するものが知られると同様な方法で知られないのか?」と質問する。ところが、上座部論者はここで以前のごとく確信をもって「否」とは返答できないのである。何故かと云えば、普通経験上知られる「人我の非実在」は超経験的に実在するものとして知られる五蘊の各要素(dharma)、たとえば色蘊のダルマ(rūpa-dharma)が純粋に知られるような方法でしか知られないからである。かくして上座部論者は肯定的に返答せざるを得ないことになり、二重否定のしかたで、「否、其れと同様な方法で知られないと云うわけではない」と応答するのである。此の肯定命題 “[-{-(yq}].” はプドガラ論者が巧妙に上座部論者から引き出したものであるが、二命題の順序をかえるだけで、上座部論者の論拠を敗退に誘導することになるのである。プドガラ論者は次の様に上座部を決めつける。

上座部論者よ、もし汝が、我等が主張である第一命題を否定するならば、汝は第二の命題も否定しなければならない。しかし、汝は第一の命題を否定しながら、第二の命題を肯定している「y(-pq)]。もし汝が第にの命題を肯定したいならば、第一の命題をも肯定しなければならない。しかし、汝は第一の命題を否定しながら、第二の命題を肯定する。汝は第二の命題を肯定しながら、第一の命題を否定するが故に、汝は論理的誤謬をおかしている。

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故に汝の命題の主張は失敗し、敗北した。

プドガラ論者は更に上座部論者を第三会の反諍(nigraha)、第四会の適用(upanaya: application)、第五会の結論において、同様な反諍を繰り返すのである。[24]

論争の課題は五蘊から十二処、十八界、身体(kāya)等々、に移行し、プドガラはこれらのカテゴリーにおける一々の超経験的な要素(dharma)と同一なものであるか、それとも異なったものであるかについて、検討を繰り返えすのである。[25] 更に、検討の課題は再生(saṃsāra)、善及び不善(kuśala and akuśala)、不定(avyākṛtavastu),善業及び悪業(Kalyāṇa and Pāpaka-karma)、六神通(ṣaḍabhijñāna)、預流乃至羅漢等の聖者位(Śrotāpanna, etc. as far as Arhant)等々の問題に進むのであるが、これらの論争のすべてが、最初の課題に於ける論法の繰り返しであり、相互誤謬(mutual invalidation)という同様な論理的行き詰まりを結果せしめるのである。

上記のは単一的課題に対する諍論で、超経験的要素(dhammas)と経験的プドガラとに関する問題であるが、箇々の要素としてのダルマと人我としてのプドガラとの次元論争に代表されるこの問題は、超越的宗教性の世界と現象的経験界との関係を追求することにあるのである。論争状況を分析してみると、相互誤謬は二者の異なった理解の仕方に由来する。

p. 325

(1)上座部論者は、ダルマとプドガラ はそれぞれ超経験的と経験的なものとして異なった言語の指示対象であると理解する。(2)プドガラ論者は、人我は超越的な要素とともに推移するのであるから、両者は同等な地位を持つと理解している。事実として上座部正当派は、彼等の教団員の為、二、三世紀の間、この問題にかんして何等公的な決定や調停をさしはさまなかった。当問題が正当派の権威と伝統に支障をきたすにもかかわらずである。まことに謎めいた意味で、好奇心をそそるものである。

此の章の目的は、何故龍樹が誤謬法に基づく中観派の論法を導出したかの理由について、アビダルマ部派論争の行き詰まりを打開することにあったことを証明するためであるが、この小論の頁数内で、筆者の提示できることは、『中観論書』中、龍樹が第十章「火と薪の検討」の項で、両者の関係がいかなる形式に於ても成立しないことを論証することを、部分的ではあるが下註に示しておくことにする。[26]要約して云えば、

p. 326

彼の論法は論理的環境を弁証法的環境に変更することにあって、後者の弁証法的環境では二者の相対立する命題が完全に重複することになる。

光明と暗夜と云う龍樹が好んで使用する対立事象を例にとって説明すれば、光が闇を照らすという現象は、普通蝋燭の光が夜間の暗黒を打ち破るという事象についてとりあげられるのであるが、概念的思考では、両者の指示する対象物は相互に矛盾する機能を帯びていることを示す。論理的環境では、これらの二者の持つ機能は同時に同一空間に置くことが出来ない。何故かと云えば、照らすと云う機能と暗黒として覆い隠すと云う機能は相互に対立するためである。しかし、我々の世間的経験では、このように両者相互に対立するものが同一空間で接触することを予想して、光が闇を照らすというのである。何故何かが照らされる時には、光りと照らされる対象とがかならずや一時空で接触していなければならないのか?これが世俗乃至世間慣習(vyavahāra)と云われる言語的象徴力なのであるが、此れが弁証法的環境を造るのでる。即ち龍樹はこの接触点に対して、重ねあわされた両者の指示対象、光と闇、の重複が読者の頭脳に、論理的な環境を超えて、常に介在していることを知らせるのである。かくして、龍樹は如何なる原理をもって論理環境を弁証法的環境に転換させ得るか、の質問にたいする回答として、それは空性の原理、すなわち、いかなるものでも実在性を持っていないと、論者自身に知らせるのである

筆者の持論とするところは、中観否定論法は経験界を否定することではなく、そしてその否定するところは、言語行為を興しうる意識の作動力を否定するのである。即ち、言語の指示対象にたいする心的追求力と、言語的一シンボルを他の言語的シンボルに連結する傾向乃至目的的追求力との否定である。アビダルマ部派論者達は、いずれも皆教義上の命題やその指示対象の追求力に執着していたものと思う。丁度ヒンドウー教論理派(ニャーヤ)と祭祀派(ミーマーンサー)が中世、同一の「言葉」(シャブダ)について論議を繰り返し、相互に自己の命題に固執して、なんらの解決法も見出せなかったようなものである。命題やその指示対象の追求力に心的潜在力が強く影響されたものであろう。したがって、中観弁証の否定論法の意義については二点で弁護できると思う。(1)一つの命題に偏向して主張している場合、その隠れた矛盾を暴露することによって、中観弁証法は二者の相違した命題にたいする尖鋭化した食い違いの根拠を喪失させ、両者に、より調停的な心的状態を復元させる様に企図されている事である。(2)さらに追加して言えることは、龍樹の否定論法は上座部正当派の五蘊、十二処、等に対する分析的内観法(vipaśyanā)を捨て去るのではなく、むしろ超越的要素である箇々の要素(dharma)を超経験的且つ超言語現象的な境地に引き戻し、其処でのみアビダルマ諸部派の上座達が内観に従事できるように取りはからったものと考えられるのである。

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龍樹の弁証論法は、これらの超経験的な要素が、プドガラとの論争によって、経験的事象や言語的現象の領域に引き降ろされた途端に、これらの超越的な要素は即座に経験論的言語現象的な対象となってしまうことを立証しているのである。

六、空性の叡智より見た唯識論のAdvaya仏教哲学とAdvaita-Vedantaヒンドウー哲学

龍樹の人生が第一世紀の中頃からに第二世紀の中頃までの百年にあったと考えて、[27]その後のインド哲学の歴史は、既に叙事詩的神話ムード時代を離れ、最も活力に満ち、知的な活動が複雑になった時代で、所謂インドの古典時代を出現させていたことになる。従って、その後一千年に亘る哲学及び宗教的発展の跡を、全般にわたって広汎な多角的記録をもって、一学者の能く辿りうる範囲のものではない。しかし、ムールテイ教授は、『奥義書』にみるブラフマン思想と、それとは独立に発展した仏陀の思想とについて、それぞれ哲学的には存在論的オリエンテーションと、認識論的オリエンテーションとに分別して、巧妙に両者の発展の跡を陳述している。かくして、一方中観哲学の影響を唯識論アドヴァヤ哲学に跡ずけ、又その一方を『奥義書』のブラフマン思想をアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学に跡ずける。仏陀が御自分の分析的内観により、『奥義書』的「自我の概念」の否定を決行して以来、仏教徒の精神的傾向態度は常に認識論的であった。唯識論者は中観派の論法を用い、画期的な三性説(tri-svabhāva)を確立し、同時に論理学的組織を発展させ、これらの方法論によって外界における存在論的対象の実在を反証したのである。斯くして、唯識論者は間接的に唯識の実在性(vijñaptimātratā)を確立したと、ムールテイ教授は主張するのであるが、[28]この命題は修正を要するものと筆者は考える。

此れに平行して、また、同教授は中観派の影響を『奥義書』的伝統をとるアドヴァイタ・ヴェダーンタ哲学に見い出し、アドヴァイタ・ヴェダーンタ哲学は否定弁証法を採用して、

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現象界の多面性を破壊するのであるが、そうすることによって、間接的ながら『奥義書』的絶対存在を不易にして、普遍且つ自明な原理として」証明しようとしたものと、理解するのである。ムールテイ教授の理解について、筆者が特に興味をもつのは、唯識派とアドヴァイタ・ヴェダーンタ派の相違にも拘わらず、同教授が両者の折衷的乃至調停を計ろうとしていることである。アドヴァイタ・ヴェダーンタ派にとっての問題は、客観的外界の存在者であるが、それに対して仏教の唯識論者は外界で知られうるものは、すべて真実には非存在であると否定する。ムールテイ教授はアドヴァイタ・ヴェダーンタ哲学の出現以前に活躍した言語学や文法学の哲学については立ち至らなかったが、一応ここで文法学者バルトリハリの言語哲学を唯識派の言語哲学と比較してみる必要がある。何故ならば、仏教の唯識論者とヒンドウー教ヴェダーンタ派の哲学的態度傾向の相違を把握するには、文法言語哲学は一助縁となるからである。

言語の超越性を主張するくミーマーンサー派は、儀式を指揮する言葉と行為の関係は一々の表現に特有な意味によって生ずるとするが、ニャーヤ論理派は言葉とその対象(意味)は人間社会の使用慣習によるものであるが、人生の幸福を実現するためには、外界の実状を正確に描写することが大切であると主張する。此れに関する仏教の立場はむしろ、現実的なニャーヤ論理派に近いと言えるが、仏教の考え方は根本的にヒンドウー学派と異なっている点が有る。ミーマーンサー祭儀派及びニャーヤ論理派は、ともに人間の心が意味する表象力によって、外界の実在を正確に描き出すことが出来ると信ずることにおいて一致している。言い換えて云えば、両者の学派は外界にあると知られる一切のものが確実に存在するというわけであるが、ミーマーンサー祭儀派にとっては、言語の使用に完全を期さなければ、宗教的救済の実現は覚束ないと主張する。ニャーヤ論理派は、やや声をおとして云う、間違いは人間につきものであるが、我々は論理や言語のサイエンスを学び修得することによって、確実な命題を創造することが出来るはずだ、と主張する。この両者に対して、仏教の立場から如何様に言えるであろうか。唯識論者は云う、言葉と其の対象とには全く決定した関係はない。さらにまた云う、言語使用にかんするかぎり、それに相応する客観的な実在は全く存在しないと。この仏教論者の考え方は上座仏教以来中観論者であろうと、瑜伽行者であろうと、その哲学においては、終止一貫して変容がないのでる。

ヒンドウー文法学派もまた、箇々人の経験内容や外界の様相を規定する言語的意味の表象力にかんして理論を建て、それを世俗慣習(vyavahāra)と喚んだ。そのような言語的表象力は一応ともに認めながら、仏教論者とヒンドウー教論者とでは、

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完全に異なった理論を建てることになった。例えば、五世紀のヒンドウー文法学者、バルトリハリ(Bhartṛhari)は、人間が(経験的に)認識した知覚は、言葉の究極的原理 シャブダ・ブラフマンの顕現したもので、その一々の命題表現(即ち、主語述語の連結)はその客観的指示対象(スポータ)を持つものであり、それがシャブダ・ブラフマンの部分的顕現態であるとするのである。バルトリハリの定義に拠れば、各命題表現には三者のカテゴリーがあり、其れは以下のごとくである。

(1)客観的指示対象(即ち、spoṭa)とは、究極的原理シャブダ・ブラフマンで、命題の主語と述語とを連結する統合者原理である(2)意味とは言葉の客観化された意味として言葉に従属する、(3)言葉(即ち、śabda)は主観的にその意味を表象するが、この表象力が言葉と意味を結び付ける。[29]

一般に、ヒンドウー教論者は言語と外界の一切との実在的並行関係を仮定する。仏教論者は、それとは反対に、そのような関係を否定するのであるが、それは人間の思惟と知覚は、見るものと(主観)と見られるもの(客観)との二者分別の上に依存するものであるから、如何なるものでも言語的世俗慣習に依存して表現されたものである限り、その実在的指示対象は存在せず主観的迷妄かあるいは想像物にすぎないとする。

文法学者の言葉とその対象との関係の理論に平行に、仏教哲学者は三者のカテゴリーを持つ「三性説」(tri-svabhāva)を建てた。この三性説は、其の始め、伝説的な宗匠マイトレヤに帰せられるものであるが、以下のごとくである。

(1)迷妄識(偏計、parikalpita)は名称と定義等の連結の上に成立する。(2)依他の主観識(paratantra)はこの迷妄に起因する。(3)円成識(pariniṣpanna)はこの迷妄が主観識より脱落することに於て現成する。[30]



p. 330

五世紀のヴァスバンドウーは更に上記より定義を簡潔にした。

経験的世界の迷妄識(parikalpita)は世間知(vyavahāra)である;依他識(paratantra)は世間知の主体である(vyavahārtṛ);そして円成者(pariniṣpanna)とは世間知の止滅おいて現成する。

文法哲学の組織では、現象世界は究極的には言葉の原理シャブダ・ブラフマン(śabda-brahman)から生起し、其処では各命題の指示対象(sphoṭa)が究極原理の部分的顕現となる。仏教哲学の三性説の組織では(tri-svahbāva)、指示対象となる実在のカテゴリーは存在しない。何故かと云えば、最初の迷妄識と第三の円成識のカテゴリーは、両者の基本となる依他識において、迷妄識が作動しているか、作動していないかによって、それぞれ分析されているからである。文法哲学と仏教哲学は、ともに世界の迷妄論で一致しているが、前者は言語並びに意味論的現象に関心をもち, 後者は認識論的及び経験的現象に関心をもつものである。ある学者達はバルトリハリの中心課題は意味論的実在(śabda-artha)であるが、仏教論者の関心は哲学的実在(vastu-artha)であったとも云う。いずれにせよ, 二者の組織する哲学体系は異なっている。

バルトリハリによれば、言葉の究極原理シャブダ・ブラフマンは、一方思惟の対象(signified meaning)として外界に顕現した実体的複写(physical replica as referent)であるが、又一方それは言語的表象作用としての思惟語(sinifying word)と思惟された意味(signified)でもある。仏教の哲学者にとっては、外界の世界、即ち迷妄、叉は世間知(vyavahāra)としては、経験的に存在しても、勝義的(paramārthatas)には実在しない、と主張する。従って、主観的認識は単に迷妄としてのみ存在し、その顕われたごとくには実在してないと云うのである。文法学者は言葉の原理シャブダ・ブラフマン、乃至、箇々の指示対象(sphoṭa)、は言葉と其の意味とを連結するに不可欠な媒介原理であるとする。しかし、仏教では、言葉とその意味とは心意識の自己分別(dvaya)以外の何ものでもないと云う理由で、媒介連結の為の客観的実在を全く認めないのである。結局、文法哲学は経験論的な主観と客観の自己分別以外に単一的な原理を仮定するのであるが、仏教の場合は、この自己分別の終焉が所謂究極なのである。

ムールテイ教授の研究書を読んでみて、筆者の感ずるところでは、ムールテイ教授は仏教の唯識論者が認識論的主客の無分別(advaya

p. 331

または無二論)の主張と、ヒンドウー教のアドヴァタ・ヴェダーンタ論者の主張する存在論的無分別(advaita、または無二論)とを調停せんとする意図を表明しているように思う。二、三引用してみるると以下のごとくである。

アドヴァヤ(advaya、無二)は白・黒の両極端、または存在・非存在、存在と生成等の両者対立意見の背反分別から自由であることである。此れは、概念的差別から自由な智である。アドヴァイタ(advaita、無二)は異質性を含まぬ根本的純粋な絶対者ブラフマンであり、叉は究極的純粋意識でもある。従って、仏教の識論者が使用する名称アドヴァヤは実際には絶対者であり、アドヴァイタの哲学組織の究極と同等である。[31]

さらにムールテイ教授は云う:

仏教のアドヴァヤ哲学の組織は認識論的であり、ヒンドウー教のアドヴァイタ哲学組織は存在論的である、と言えるが、ヴェーダーンタ派(ヴェーダの伝統論者)もヴィジュニャーナ派(唯識論者)も、其の究極の目的は真実に実在的な対象を求め、或はそのような知識で心意識をいっぱいにすることによって、心意識は実在と遂には合体するものである。[32]

ムールテイ教授の云わんとするところは、究極者ブラフマンが、絶対普遍者として、完全に差別相を超越して輝き出る時、究極的知能そのものと合一し、専心的な統一の中に出所を喪失する、即ち、「ブラフマンの知が実にブラフマン其のものとなる」と云うのである。[33]言い替えれば、理論的に究極者が一切の現象的差別相から自由となるとき、究極の客観的原理は完全となった認識論的主観と同一化すると云うのであろう。ヴェダーンタ派一般の見地から見て、ムールテイ教授の学識は公平であると考えられる。中世の哲学的論争において、あるヴェーダーンタ論者は仏教の中観論者や唯識論者に対して、何等の実在も想定しない彼等は、世界は只妄識の顕現なりと主張するニヒリストであると、不正当な理由で攻撃したことについて、以下のごとく弁護をこころみる。



p. 332

事実仏教の中観派は実在を否定するのではない、何故かと云えば、彼等は実在は人間の思考や思惟を超越するのであるから、実在に関する独断的な教義を否定するだけである。かれらにとって、実在は思考をこえるのであるから、各哲学の組織がそれに対する定義をたてることに対して、批判をこころみるのである。一切の概念的理性の活動が批判され終焉される時、はじめて般若波羅蜜の叡智が生まれてくるのである。[34]

龍樹自身の定義に「真実」(tattva)の語が『中論頌』第二十四章八、九、十頌に出てくるが、[35]ムールテイ教授が善意に基きインド文明に於ける二大伝統の調停を試みていることは、甚だ特筆にあたいすると筆者は考え、けっして軽くうけとめることは出来ない。従って、筆者は瑜伽行派の三無性説(niḥ-trisvabhāva)についてムールテイ教授が如何様に理解しているものか検討してみた。元来瑜伽行派の宗教的実践と解脱を保証するため、三無性説は三性説の根拠に位置づけられるもので、三性説自体が空であることを知らしめるものである。しかし筆者はこの三無性説にかんするムールテイ教授の言を見いだすことが出来なかった。筆者の知る限り、仏教の哲学者は無分別(アドヴァヤ)の限界を決して超えることはない。又、南アジア、東南アジア、或は東アジアを問わず、将又僧俗を問わず、如何なる仏教の実践者も、無分別の限界線を超えて、宗教的解脱の境地を存在論的に表現したことを聞いたことがない。従って、筆者は、この事実は重要な意味をもって、空性の叡智と必然的な関係に有ることを付け加えておきたい。

七、結論

ムールテイ教授の書、『仏教の中心哲学』、は1950年代中頃に出版されたが、それはインドの独立以来十年以内のことである。当時インド庶民の希望や抱負は無限であった。当時のイデオロギー上の拮抗は根本的に世俗的な問題であり、それ以前にあった理性にもとずき相違する見解にかかわる問題であった。

p. 333

此の故に、筆者はムールテイ教授の高潔な意見、すなわち、拮抗するイデオロギーを調和するには、龍樹の弁証論法が使用可能な方法論であると、発言したことは、実に素晴らしい示唆であったものと高く評価できるのである。仏教のアドヴァヤ哲学と、ヒンドウー教のアドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学を、それぞれの態度傾向にかんして(認識論対存在論)調停を試みたムールテイ教授の努力は、当時穏当な方向であったと考えられる。東西哲学の会話交流が盛んになる頃であったから、インドの宗教がユニタリアン・キリスト教神学に影響を与えたことは云う迄もなく、ムールテイ教授のヴィジョンは確かに歓迎されたものである。

しかしながら、現今見られる拮抗闘争は、もはや宗教的信仰やそれに由来する行為と、世俗の社会、政治、経済にかんする諸問題に由来する行為とは、明確に区別がつかない事態にいたっている。今日の闘争は宗教信仰の相違にも由来し、且つ信仰と理性の相違にも由来している。東南アジアや東アジアにおける現代的実践仏教の実状を検討する結果、筆者は、仏教界の発展方向は、古代インド乃至中世インドとは独立した方向をとっていると結論せざるを得ない。此れは仏教の宗教的並びに世俗的活動が元来の仏教的遺産から遠うざかっているとは考えない。むしろその反対に、仏教の元来の宗教的哲学的態度や傾向に極めて緊密に従っていると思う。インドのヒンドウー教社会が、よかれあしかれ、仏教的遺産とはことなった、其れ自体の歴史的方向に進展してゆくのであるから、その限りにおいて、仏教の世界は現今インドの文化事情からも遠くなりつつあると見られるのである。

ムールテイ教授の命題は中観仏教の弁証論法が仏陀の中道への超越を実現するものであり、この弁証論法は仏陀が沈黙をもって、あらゆる概念や理論を否定したことを立証するのであることを提示する。更に、ムールテイ教授は、中観仏教の弁証論法が唯識派のアドヴァヤ哲学とヴェダーンタ派のアドヴァイタ哲学の方法論として貢献し、且つ又これら相互に対立する伝統が仏教の認識論的態度傾向と、ヒンドウー教の存在論的態度傾向との距離を無限に近接しせしめることになったと見る様である。筆者の中観仏教の弁証論法にかんする理解は、ムールテイ教授の理解とは異なるが、それは元来、アビダルマ部派仏教の論争に於ける論理的行き詰まりの打開のために創造された方法論であったと考えるのである。後世中観論法は宗教的並びに哲学的論争によって、全インド的文化形態となるのであるが、仏教とヒンドウー教両者の根本的な相違は疑いもなく存続してきた。ムールテイ教授の明晰な中観仏教弁証論法の理論化は、一部分西欧哲学の恩恵をうけていると思われる。しかし、その限りにおいて、仏教の弁証論法が西欧哲学の弁証法と如何に異なるかを明示することに貢献していると思う。

p. 334

此れからは、龍樹的な仏教の弁証論法が今後西欧哲学に如何なる影響を与えるであろうかが、問題である。

仏教徒は一般に仏陀の宗教真理としての四聖諦を他にひろく伝達する使命をもつと理解している。東南アジアにおいては、上座仏教の実践修行がこの四聖諦に根拠を持つこはあきらかである。即ち、ダンマカーヤ運動は僧俗あわせて、分析的内観の修行実践を世界に伝播せんとして、それを努力の中心としている。東アジアにおいても同様、般若の叡智を根拠とする大乗菩薩の理想が、積極的な慈悲と人間愛とをもって、四聖諦の伝達を誓願として努力している。[36]

如何なる文化であれ、その究極的価値は理性の知、或は宗教の信に基づく。ムールテイ教授はカントの批判哲学及び概念規定の根拠にある「もの自体」(thing-in-itself)と「知性の先天的形式」(a-priori forms of human intellect)によって、中観弁証論法を理解し、理論化しているように見える。もし絶対的な「もの自体」が決して先天的知性の形式を超えて人間に知られることがないとすれば、宗教論者は宗教の特権として、非有神論的原理或は有神論的絶対者を信の対象として投射することになりはしないかと危ぶまれる。仏教は無分別智(アドヴァヤ)の境界を勝義、空性、或はまた無我としてそれを超えて実在を説かない。したがて、この立場は一切の哲学および宗教にたいする安全弁となりうるものではなかろうか。

ムールテイ教授はかなりの頁数を大乗菩薩にかんして、「知性と意思を特別に統一した理想像」として説明する。[37]宗教的文化には外部的強制があってはならず、あくまでも自己自身の自由意志に拠って洗練されたものでなければならない。この点について、筆者は、インドの仏教文化の遺産が、自己の涅槃を捨て、終焉す ることのない利他の努力に生涯をかける菩薩像が、

p. 335

いかに高潔な理想であるか、実に驚嘆せずにはいられないのである。

T.R.V. ムールテイ教授生誕百年記念会議,2002年12月18-21日発表)



p. 336

擺脫文化束縛的佛教宗教性之傳達──由東南及東亞到全球時代的轉換


市村承秉
北美禪佛教研究所所長

提要

隨著自古以來興起於印度的佛教的東漸,在東南亞及極東亞的文化圈內的佛教徒,整個中世紀,印度除了是佛教聖地之外,印度的民眾,不論是實質或潛在方面,長久以來一直被公認是具有豐富佛教本質的民眾。但隨著第二次世界大戰的結束,因為歷史情況的變化和機械文明的發達及應用,對這種意識的內容逐漸造成巨大的轉化和變質。另一方面,Murti教授的《佛教的中心哲學》(1955發行),因係印度獨立八年之後才出版的,當時印度的政治領袖之中,對於印度佛教的再興此一課題是處在不論政治或文化上都認為是有可能性的時代。世界佛教聯盟在錫蘭結成之後五年,接著又由印度政府協辦佛曆2500年紀念會議,時值1957年,但後來,因國際情勢與國內局勢的變動,以印度大陸為主的印度教文化圈和東南亞及極東(東亞)的佛教文化圈,之間的差異表面化。以致彼此的距離日漸疏遠。

Murti教授的著作,正如上述,是順應當時的時代需求而寫的,但在思想方面,與其說是作為佛教文化代表者的思想探索,還不如說是身為印度教文化的代表者以印度哲學,即印度教哲學的傳統為基礎,符合Advaya印度教理論,精闢佛教的中觀思想的理解後的力作。

又本論文雖是針對上述Murti教授的著作,從佛教哲學及佛教文化的立場所提出的批判論文,但決非企圖採取偏見立場的主觀之作。而是因為現今,站在普遍性的人道中心主義及國際主義的立場,正值因為宗教文化的差異與政治經濟的不平等所興起的恐怖主義和極端基本教義派的鬥爭,而處在危機狀態之故,所以印度的有識之士,在紀念Murti教授百歲壽誕的同時,再一次重新檢討此時教授著作的意義及目的。激賞重視其意志,努力於對論者立場之理解。歸納之,本論文希望能定位為:對於今後佛教思想之傳達,應該立足於能夠超越所有一切文化形式的大乘佛教的空性理論的一個論證。

關鍵詞: 1.T.R.V. Murti  2.《佛教的中心哲學》  3.中觀哲學  4.中觀辯證法  5.佛教不二哲學  6.印度不二哲學  7.般若與空性

               (中文提要由楊德輝譯)



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Culture-Free Transmission of Buddhistic Spirituality: Global-Era Transformations from Southeast and East Asia


Shōhei Ichimura
Director North American Institute of Zen and Buddhist Studies

Summary

From ancient times, Buddhism spread eastward from India, where it flourished. Throughout medieval times, India was a sacred Buddhist place for Buddhist followers in Southeast and East Asian cultural spheres. I believe that the people of India, both actually and potentially, are endowed with the essence of Buddhism. However, with the end of the second world war, due to historic changes and the development and adoption of mechanized civilization, there resulted a great change in the contents of this type of awareness. On the one hand, since Prof. Murti’s The Central Philosophy of Buddhism (1955) came in the wake of India’s recent independence, leaders in India at that time were aware of that Indian Buddhism’s re-emergence was politically and culturally possible. Five years after the World Fellowship of Buddhism was formed in Ceylon, the Indian government sponsored and held the 2500th anniversary of the Buddha’s birth in 1957. However, subsequently, as the international and domestic situation changed, mutual discrepancies and divergence gradually emerged between the Hindu cultural sphere mainly in the Indian subcontinent, and Buddhist cultural spheres in Southeast and East Asia.

As mentioned above, Prof. Murti’s work responded to the needs of the period. Methodologically, it was an investigative study done less as a representative of Buddhist culture, but more as a representative of Hindu culture, specifically, Indian philosophy in the tradition of Hindu philosophy. It was a tour de force which explained Buddhism’s understanding of Madhyamaka in parallel with Advaita Hinduism theory. The present article is a critique, from the standpoint of Buddhist philosophy and Buddhist culture, of the abovementioned work of Prof. Murti, but, by no means is intended to be one-sided. Now, in a time of international turmoil and imbalance, also at a time when Indian intellectuals are commemorating the 100th anniversary of Murti’s birth, I would like to attempt to examine the significance and intentions of Murti’s works. I fully accept his intentions, and I am striving to understand the position of those who oppose him. In short, the present article is my attempt to demonstrate the capacity for the future transmission of Buddhist thought to supercede any cultural forms by means of the Mahāyāna theory of emptiness.

關鍵詞: 1.T.R.V. Murti  2.The Central Philosophy of Buddhism  3.Mādhyamika Philosophy  4.Mādhyamika Dialectic  5.Buddhist Advaya Philosophy  6.Hindu Advaita Philosophy  7.prajñā and śūnyatā

         (Summary translated by Eric Goodell)

[1] The Central Philosophy of Buddhism (London: George Allen and Unwin Ltd, 2nd ed., 1955), pp. 16-17.

[2] To defend the independent origin of Śākyamuni's religion and Saṅgha, I was compelled to renounce the Spenglar type of destiny interpretation of Buddhism developed from the Brahmanical tradition. Instead, I adopted Toynbee's empiricist type of a Break-through Origination in response to the challenge of history. SeeŚākyamuni's Critical Spirituality and India's Crisis,” included in my latest book: Buddhist Critical Spirituality: Prajñā and Śūnyatā, esp. Chap. 1, Motilal Banarsidass, 2001.

[3] Sāṃvṛti has three definitive meanings:

    (1)conceilment from truth due to existential ignorance (avidyā or ajñāna) or phenomenal reality covering the Absolute (Stcherbatsky);

    (2)mutually dependent existent within the Saṃsāra domain (anyonya-samāśraya, paraspara-apekṣa) (Candrakīrti);

    (3)customary agreement (saṃketa), linguistic convention (vyavahāra). The term was translated into Chinese assecular world” (世俗­ or 俗世), “convention” 設施or施設), etc.

[4] This master's analytical introspection, the advancement of meditation is in detail starting with the initial Śamatha practice, the stages of Dharma-vipaśyanā-smṛtiprasthāna consisted of Śīla, Samādhi, Prajñā, Vimukti, Vimukti-jñāna-darśana, and the stages of Rūpa-kāya, Arūpa-kāya, Gotrabhī, and finally the four saintly states of Śrotāpanna, Sakṛdāgāmin, Anāgāmin, and finally the state of Arhant. Through these stages, the practitioners are required to review each stage in terms of the four Holy Truths. Re.: Jikai Fujiyoshi: Ch. Nanpō-bukkyō-no-Meisō- (The Method of Meditation in Southern Buddhism), Nampō Bukkyō-Sono-Kako-to-Genzai (Southern Buddhism: its Past and Present), Kyoto: Heirakuji Shoten, 1977: pp. 66-68.

[5] Mo-ho-pan-jo-po-lo-mi-ta-ming-chou-ching (『摩訶般若波羅蜜大明咒經』1 fasc., Taishō. vol. 8, No. 250), whose sanskrit equivalent has been identified as Mahāprajñāpāramitā-mahā-vidyā-mantra-sūtra. I rendered the title literally in parallel with the compound terms; 'ta' asgreat;ming' (明, avidyā) aswisdom,” “knowledge;chou' (咒, mantra) asprayerorsacred formulaormystical verse.”

[6] Kumārajīva was native of Kutcha and trained in Mahāyāna Buddhism in Kaśmīra, especially in Mādhyamika tradition. He represented the earlier period of Chinese scriptural translation, whereas Hsüan-tzang the later period. The Heart Sūtra by Hsüan-tzang and the Prayer Sūtra by Kumārajīva are so close in terms, phrases, and meanings, it is futile to seek any difference in terms of textual critique. Since Hsüan-tzang did not incorporate it in his super-voluminous, all inclusive Great Prajñāpāramitā Sūtra, of six hundred fascicles, he must have regarded this shortest scripture an independent one.

[7] The following is a synopsis of the Hṛdaya Sūtra:
Hsüan-tz'ang's: Conze's Sanskrit Equivalents from The 25,000 Śloka
Translation Prajñāpāramitā Sūtra (esp. the 2nd Ch.)
觀自在菩薩 āryāvalokiteśvaro bodhisattva
行深般若波羅蜜多時 gambīraṃ prajñāpāramitām caramāṇi vyavalokayati sma
照見五蘊皆空 pañca skandhās svabhāva-śūnyān paśyati sma
度一切苦厄 (No Sanskrit equivalent)
舍利子, iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā śūnyatāiva rūpaṃ
色不異空空不異色 rūpān na pṛthag śūnyatā śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
色即是空空即是色 yad rūpaṃ śūnyatā śūnyatātad rūpams
受想行識亦復如是 evam eva vedanā-sañjñā-saṃskāra-vijñānam
舍利子, 是諸法空相 iha Śāriputra, sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇa
不生不滅,不垢不淨,不增不減 anutpannā aniruddhā amalā avimalā anūnā apari-pūrāḥ
是故空中,無色 tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñāna
無受想行識,無眼耳鼻舌身意 saṃskārāḥ na vijñānaṃ na cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṃsi
無色聲香味觸法 na rūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavya-dharma
無眼界,乃至無意識界 na cakśur-dhātur yāvan na manovijñāna-dhātu
無無明,亦無無明盡 na-avidyā na-avidyā-kṣayo yāvan
乃至無老死,亦無老死盡 na jarāmarṇaṃ na-jarāmaraṇakṣayo
無苦集滅道,無智亦無得 na duḥkha-samudaya-mirodha-mārgā na jñānaṃ na prāptir na'prāpti
以無所得故,菩提薩埵 tasmāc Chāriputra aprāptitvād bodhisattvasya
依般若波羅蜜多故,心無罣礙 prajñāpāramitām āśritya viharaty 'cittaāvaraṇa
無罣礙故,無有恐怖 cittāvaraṇa-nāstitvād saṃyuktam na visamyuktam
遠離一切顛倒夢想,究竟涅槃 atrasto viparyāsa-atikrānto niṣṭa-nirvaṇāḥ
三世諸佛,依般若波羅蜜多故 tryadhva-vyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām āśritya
得阿耨多羅三藐三菩提 anuttarāṃ samyaksambodhim abhisambuddhāḥ
故知依般若波羅蜜多,是大神咒 tasmād jñātavyaṃ prajñāpāramitā mahāmantro
是大明咒,是無上咒,是無等等咒 mahāvidyā-mantro 'nuttara-mantro 'samasama-mantraḥ
能除一切苦真實不虛故 sarva-duḥkha-praśamanaḥ satyam amithyatvāt
說般若波羅蜜多咒,即說咒曰 prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ
揭帝揭帝,波羅揭帝 tadyathā oṃ gate gate pāragate
波羅僧揭帝,菩提僧莎訶 pārasaṃgate bodhi svāhā.

[8] Mahāprajñāpāramitopadeśa-Śāstra (Ta-chih-tu-lun『大智度論』) translated by Kumārajīva through 402-405. This was Nāgārjuna's Commentary on the Larger Prajñāpāramitā Sūtra (『大品般若經』).

[9] Pañcaviṃśati-sāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra (the 25,000 Verse Prajñāpāramitā Text), which is known as identical with the Larger Prajñāpāramitā Sūtra (『大品般若經』).

[10] Lokesh Chandra: The Thousand Armed Avalokiteśvara. Delhi: Indira Gandhi National Center for Arts, 1988; pp. 11-16. He explains that Avalokitasvara was a metamorphosis of Brahmā, Lord of the Earth, who was known also as the Hindu deity Lokeśvara or Lokanātha (the lord or savior of the world identical with Śiva).

[11] The Hindu deity Śiva was assimilated to Buddhism and gave rise to the name Avalokiteśvara (avalokita-īśvara, the lord Avalokita), thereby allowing the emergence of the thousand-armed Bodhisattvas. Lokesh Chandra asserts thatthis Avalokiteśvara sometimes appears as a Buddha and at other times as the Hindu deity Iśvara or Maheśvara (Śīva), without clear reason.” So came to being several types of Kuan-yin images that were linked to Hindu iconography, like those endowed with one thousand arms, thousand eyes, four faces, eleven faces, a horsehead, a fearless lion head, a blue neck, and so on.

[12] See my detailed study inBuddha's Love and Human Love with focus on Kuan-yin Boddhisattva,” presented at International conference of Philosophy and Psychology held at Nan-hua College, Taiwan, Oct. 16-17. Chung-hua Buddhist Journal 13, pp. 195-254 (2000). Also, Ch. 3, Buddhist Critical Spirituality . . . .

[13] Murti; op.cit., p. 40.

[14] Ibidem, pp. 75-76.

[15] Ibidem, p. 83.

[16] Ibidem, p. 82.

[17] Ibidem, p. 83.

[18] Ibidem, p. 132.

[19] Refer to Ichimura's Buddhist Critical Spirituality. . . , esp. Chap. 5: “Ābhidharmika Logical Crisis and Mādhyamika Dialectical Solution,” and also see: “A Study of the Mādhyamika Method of Refutation, Especially of its Affinity to that of Kathāvatthu,” JIABS, Vol. 3, No. 2 (1980) 7-15;The Madhyamika and The Future” (presented in 1990), included in Buddhism Into The Year 2000, Dhammakāya Foundation, 1994;Ābhidharmika Logical Deadlock in the Kathāvatthu and Nāgārjuna's Madhyamaka Dialectic,” JIBS, vol. 39, No. 2 (1991) 20-24.

[20] The passage appears from No. 74 onward as a part of disputes concerning the question of whether a puggala is different from or identical with, a Skandha of rūpa-dhammas, etc.

[21] Accordag to Buddhaghoṣa, Moggaliputta-tissa is said to have followed the method of discourse adopted by the Buddha (satthārā dana-nayavasena) at the time he established thetopicsof the Kathāvattu (Mātikā). He adduced 500 Suttas each from the Theravāda (sakavāda) and outside schools (paravāda) and thus made the entire Abhidhamma his own teaching of the ultimate truth (paramaṭṭha-desanā) as opposed to the popular teachings (vohāra or vyavahāra). There are 217 issues classified under twenty-three Vaggas. See Jayawickrama's introduction to his critical edition of the Kathāvatthu-ppakaraṇa-Aṭṭhakathā (op. cit., xv-xix).

[22] ‘saccikaṭṭho paramaṭṭho tato so (dhammam) upalabbhati saccikaṭṭhaparamaṭṭhena.'

[23] In Indian logic, logical relation was not conceived in terms of comprehension of the minor term or proposition by the major, but in terms of concomitance, concurrence, or accompaniment of two terms or propositions, although the latter relation can be translated into the formercomprehension of a minor universal by a larger one. Hence, a conditional statement: “ifp,' thenq'”, was not conceived in terms of comprehension expressible by the containment symbol ‘⊃,' but, strictly speaking, in terms of conjunction expressible by the conjunctive symbol ‘..' Here, the containment symbol is used with an intention to express the conditional force of the logical rule, and the argument in question ought to be understood as: “‘p * -q' is false, becausepq.'”

[24] Theravāda versus Pudgalavāda: “Whether Puggala is Empirical or Transcendent

x' = dharma; “(x)p” = “is known as a genuinely real thing,”

y' = pudgala; “(x)q” = “is known in the same way as a genuinely real thing is known.”
1. Theravāda Refutation
Puggalavāda thesisy(p.-q)” is false, becausepq; also Hence, Pudgalavādasy(p.-q)” is false.
2. Puggalavāda Rejoinder
Theravādas thesis: “y(-pq)” is false, because “-q⊃-p,” because “-p⊃-q; also becauseqp,” Hence, Theravādasy(-pq)” is false.
3. Puggalavāda Refutation
Theravāda thesisy(-pq)” can be refuted, because “-p⊃-q; also becauseqp.” Theravāda'sy(-pq)” can be refuted.
4. Puggalavāda Application
Our thesis y(p.-q) is not falsified; Your refutation y{-(p.-q)} is not acceptable, becausepqand also because “-q⊃-p;
5. Puggalavāda's Conclusion
Our thesisy(p.-q)” is not refuted, becausepqis not compelled; Your refutationy{-(p.-q)}” is not convincing, because “-p.–qis not compelled; Our thesisy(p.-q)” is not refuted, because neitherpqnor “-q.–pis compelled.

[25] Kathāvatthu up to No. 157, p. 28.

[26] Nāgārjuna uses the metaphor of fire and fuel, respectively exemplifying a pudgala and a group of Skandhas, both of which are supposed to be simultaneously on-going affairs. The phenomenon of combustion somehow occurs through the contact of fuel and fire, just as the activity of apudgala' occurs along with the group ofskandhas.' Nāgārjuna argues as follows:

Verse 1: If fuel is identical with fire, the fire, agent of burning, and the fuel, object being burned, would become identical. [For,] if fire is different from fuel, there should be fire without fuel.

Verse 2: [If this were so,] fire would continue to burn forever, burning without any fuel or without the meaning (necessity) of burning fuel again, and it would thus become one which has no function of burning.

Verse 3: Here, if that fuel which is being burned is identical with this fire, when that fuel is being burned alone, by what agent of burning could it be burning it further?

Verse 5: [If fuel is different,] fire does not reach it; the unreached cannot be burned. Moreover, whatever abides unburned cannot be extinguished; being inextinguishable, it must remain, indeed, like one that has its own mark (i.e., self-existent; svaliṅgavān; i.e., svabhāvatas).

Verse 8: If fire depends on fuel, and fuel on fire, which one of these two [fire or fuel] should come into existence first; depending on which does fire burn fuel?

Verse 12: Fire does not arise by dependag on fuel, nor does fire arise without dependag on fuel, nor is fuel burned dependag on fire, nor does it burn without depending on fire.

Verse 13: Fire does not arise from anything other than itself, nor is fire found anywhere in the fuel. Of this fuel, every alternative feature has already been said just as it was examined in the passage of present, past, and future of motion.

Verse 14: Again, fuel is not fire, nor is fire found elsewhere other than fuel. Fire does not possess fuel, nor is fuel found in fire, nor is fire found in fuel.

[27] Ichimura: “Re-Examining the Period of Nāgārjuna: Western India, A.D. 50-150” (龍樹の年代論再考), JIBS, vol. 40, No. 2, March 1992 (pp. 8-14);The Period of Nāgārjuna and the Fang-pien-hsin-lun or Upāyahṛdayaṣāstra (龍樹の年代と『方便心論』), JIBS, Vol. 43, No. 2, 1995, pp. 2033-2028; also Re.: Buddhist Critical Spirituality. . . , Chap. 2.

[28] Murti: op.cit., p. 218.

[29] Re.: Vākyapadīya, Kaṇḍa III: Sambandha-samudeśa.

[30] Étienne Lamotte: “Les troiscaracteres' et les troisabsences de nature propre' dans le Samdhinirmocana” (Chap. 6 with a sanskritization from the Tibetan version), Bulletin de la Classe des Lettres et des Sciences Morales et Politiques, Louvain, 1935, p. 298; also, his Sandhinirmocana-sūtra, L'explication des mystères (Texte tibetain edite et traduit) (Louovain, 1935), 63.

[31] Murti: op.cit., p. 118.

[32] Ibidem, p. 217.

[33] Ibidem.

[34] Ibidem, p. 218.

[35] Mūlamadhyamaka-kāriā-śāstra, Ch. 24: Verses 8, 9, 10: dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharmadeśanā /

lokasaṃvṛti-satyaṃ ca satyaṃ ca paramrthataḥ // 8

ye 'nayor na vijānanti vibhāgaṃ satyayor dvayoḥ /

te tattvaṃ na vijānanti gambhīraṃ buddhaśāsane // 9

vyavahāram anāśritya paramārtho na deśyate /

paramārtham anāgamya nirvāṇaṃ nādhigamyate // 10

[36] The early original form of the Four-fold Bodhisattva Vow (四句誓願) can be traced back to the Eight Thousand Sloka-Prajjñāpāramitā Sūtra (Fasc. 8), (『八千頌般若經』), translated by Chih-lou-chia-ch'en in A.D. 179, [Taishō. 8, (No. 224)]; Lotus Sūtra (Ch. 3), (『妙法蓮華經』) translated by Kumārajīva in 406, and so on, but it is clearer still in the Bodhisattva Ornament Sūtra (vol. 1 of two vols.). In this Sūtra, the Bodhisattva's vow is formulated with reference to the four Holy Truths. (『菩薩纓絡本業經』or the Sūtra on the Original Action of the Garland of the Bodhisattva (2 fasc.) translated by Chu-fo-nien (Buddhasmṛti) in 376-378. Taishō. 24 (No. 1485), 1010.

May I help all those who have not overcome suffering overcome it;

May I help all those who have not understood causal aggregation understand it;

May I help all those who have not settled firmly in the path settle upon it;

May I help all those who have not realized Nirvāṇa realize it.

[37] Murti: op.cit., p. 264.